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平成30年間 中国では何が起こっていたのか①ー1989年~1998年

間もなく改元。「平成」も過去のものとなり、新しい時代「令和」へと移っていくことになります。多くの場面で「平成30年を振り返り」が行われていますが、実は中国にとってもこの30年間は大きな変革の時期でした。

改元を間近に控えたこの時期、「30年間」という区切りで中国現代史を振り返ってみましょう。

1989年~1998年。日本と中国には何が起こっていたのか

まずは、平成最初の10年間に起こった日中双方の出来事を年表にまとめてみました。

  平成 日本 中国
1989年 元年 ・平成に改元
・任天堂ゲームボーイ発売
・美空ひばり死去
・横浜ベイブリッジ開通
・坂本弁護士一家殺害事件
・6月4日天安門事件勃発
・江沢民が党総書記に就任
・『香港特別行政区法草案』発布
1990年 2年 ・テレビアニメ『ちびまる子ちゃん』放送開始
・キリン一番搾り生ビール発売開始
・セガ「ゲームギア」発売。日本初のカラー液晶携帯ゲーム機
・任天堂からスーパーファミコン発売
・北京でアジア大会開催
・上海証券取引所成立
1991年 3年 ・バブル崩壊「失われた20年」の開始と言われる
・横綱・千代の富士引退
・SMAPがCDデビュー
・ジュリアナ東京オープン
・第一回「315晩会」が放送される
・深圳証券取引所成立
・四人組の1人、江青(毛沢東夫人)自殺
・海部俊樹、中国訪問
・養老保険制度改革正式決定
1992年 4年 ・Sonyからミニディスク発売
・Casioから「G-SHOCK」発売
・東京佐川急便事件
・アニメ『クレヨンしんちゃん』放送開始
・鄧小平『南巡講話』発表
1993年 5年 ・Jリーグ開幕
・皇太子・徳仁親王ご成婚
・音楽レーベル・ビーイングブーム
・55年体制崩壊
・田中角栄死去
・上海東方電視台、上海電視台開局
・上海浦東新区、正式成立
・インターネット使用開始
・江沢民が中国国家主席に就任
1994年 6年 ・Sony「PlayStation」発売
・SEGA「SEGA Saturn」発売
・松本サリン事件
・ドラマ「家なき子」がヒット
・ジュリアナ東京閉店
・中国『公司法(企業法)』成立
・チャイナユニコム成立
1995年 7年 ・阪神淡路大震災
・地下鉄サリン事件
・Windows95発売
・オウム真理教への強制捜査。麻原彰晃(松本智津夫)逮捕
・中国『広告法』成立
・週休二日制始まる
1996年 8年 ・任天堂の「ポケットモンスター(赤・緑)」発売
・バンダイ「たまごっち」ブーム
・ルーズソックスブームや援助交際など女子高生がクローズアップされる
・「O157」による食中毒事件
・中国で初の民間投資家による株式商業銀行・民生銀行成立
・董建華が香港特別行政区行政長官に選出
1997年 9年 ・ロッテが初のキシリトール配合のガムを発売
・映画『失楽園』公開
・神戸連続児童殺傷事件
・X JAPAN解散を発表
・山一証券破綻
・鄧小平死去
・香港返還
・CNNIC(中国インターネット情報センター)成立
1998年 10年 ・長野冬季オリンピック開催
・日本長期信用銀行、日本債券信用銀行などが倒産
・日本が初めてワールドカップ出場
・和歌山毒物カレー事件
・iMac発売
・江沢民、日本訪問
・中国でもタイタニックブーム起こる
・ヴィッキー・チャオ主演のドラマ『環珠格格』がブームに
・長江大洪水
・テンセント成立

日本側を見ると、やはりなつかしさがこみ上げてきますが、同時に中国側を見ると、この時期が現代中国にとって非常に重要な時期であったことがわかります。

 

続いてその中国の大事件を背景を見ていきましょう。

大きな政治変革の中にいた中国

日本で平成時代に入ったころ、中国は大きな政治的転換期の真っただ中でした。

1977年に文化大革命が終結し、華国鋒政権を経て鄧小平が復権。80年代には胡耀邦、趙紫陽を左右に置き、経済の立て直しを図るべく改革開放路線を提唱していたころです。

 

多くの施策、成功と失敗を繰り返していた時期ですが、まさに平成元年(1989年)に大きな事件が中国で起こります。

いわゆる「六四天安門事件(第二次天安門事件)」です。

 

経緯については周知のとおりですが、念のためおさらいを。

 

リベラル派であった胡耀邦・国家主席の死を悼み、民主化を求める多くの学生が天安門に集まり、当時の中国政府(主に鄧小平をトップとした元老政治)に対して民主化を訴えたことがきっかけでした。

 

4月15日から始まったデモは徐々に拡大し、他の街へも普及。5月19日には北京市に戒厳令が発令されました。

胡耀邦の盟友でもあったリベラル派の趙紫陽・共産党総書記は同日、天安門に赴き、ハンガーストライキを行う学生たちに説得を試みますが、果たせず。最終的に6月4日、武力鎮圧という結果を迎えてしまいました。

 

中国は鄧小平の復権によって「改革開放路線」へと舵を取っていましたが、鄧小平自身も完全に国の主導権を握り切れておらず、保守的思想をぬぐい切れない元老との微妙な駆け引きが続いていました。

その状況の中、急進的な改革よりも経済を優先させる鄧小平と当時の国際政治の主流であった民主的な改革までつなげていこうという胡耀邦・趙紫陽の間に認識の違いが生まてしまったと考えられます。

この事件で民主化を支持するリベラル派は姿を消しますが、それによって西側の経済制裁を受け、改革開放路線による経済政策に影響が生じます。

それに乗じ開放路線に批判的な保守派は鄧小平批判(陳雲の『鳥籠経済論』など)を展開し始め、それらを抑え込む必要が生じました。

 

そこで鄧小平が行ったのが1992年の『南巡講話』です。

 

鄧小平は上海など、江南から南方視察の際、現地のメディアを通じて改革開放経済の意義、推し進めるための重要な声明を発表。「市場経済」の重要性を説きました(この時、北京のメディアを使わなかったのは、北京メディアが保守派に牛耳られていたからと言われています)。

 

これによって保守派のトップである陳雲も自己批判を行う、政治の一線から身を引き、ほぼ完全な鄧小平体制へと移行することになったのです。

 

この90年前後の政治的な混乱を経て、中国は本格的な経済成長期へと入っていきました。

【グラフ】1989年から1998年の中国GDPの推移

「急成長の中国」の土台作りが行われた90年代。

日本の様子を見てみると、89年~92年ごろまではバブルの余光こそ残っていましたが、1992年頃より、いわゆる「失われた20年」が始まるなど、長い不景気へと突入していきます。

90年代の終わりごりになると、証券会社の破綻や銀行の倒産など、経済面でも大きな

 

中国では90年代に入ったころから、証券取引所(上海、深圳)の成立や、初の民間資本を集めて作られた銀行の成立。

さらには企業を管理する法律や、所得税や養老金(年金)といった社会保障の整備など、着々と「国造り」を進めていく時期となりました。

 

とはいうものの、日本は依然として世界第2位の経済大国であり、中国は発展途上のなか、ようやく成長へのスタートを切った状況。

 

2000年代に入り、中国の存在が大きくなるにつれて「中国脅威論」や「中国期待論」が日本でも台頭してきました。

さらに近年も中国の経済成長を背景にしたインバウンド越境EC需要が日本企業から注目されています。

そうした状況の土台が、平成時代の初期に作られていたのです。